おがちぃ散歩

大光明寺陵 09.05.24

大光明寺陵 (1)
13.09.09 撮影

大光明寺陵 (2)
13.09.09 撮影

JR奈良線の桃山駅のすぐ南側、
団地と住宅地の間に大光明寺陵があります。
大光明寺陵 (3)
13.09.09 撮影

大光明寺陵は北朝系天皇である
光明天皇(北朝第2代)・崇光天皇(北朝第3代)の御陵と、
崇光天皇の皇孫治仁親王の御墓です。

大光明寺陵 (4)

この御陵は桃山駅のすぐ南側にあるとはいえ、
改札口からは離れているので徒歩で5分程度の時間を要します。

大光明寺陵 (5)

大光明寺陵 (6)


大光明寺とは、室町時代のはじめにこの辺りにあった臨済禅宗の寺院で、
北朝の護願寺として七堂伽藍を完備していたそうです。
光厳・光明・崇光の各天皇も出家されこの寺へ入られます。

また、塔頭の大通院は
伏見宮家初代の栄仁(ひでひと)親王の隠居寺でもありました。

大光明寺陵 (14)a

大光明寺陵 (15)a
京都市上京区の相国寺にある現在の大光明寺:13.12.05 撮影

応永8(1401)年の失火により跡形もなく焼けてしまい、
以後、凋落の一途をたどりますが、
伏見城築城の際に京都市上京区の相国寺へ移されます。



大光明寺陵 (11)
石垣が見つかった京都市伏見区鍋島町の国道24号と立売通の交差点:11.10.19 撮影

また大光明寺陵と東の団地一帯周辺は指月城跡でもあります。

最近では、指月城跡の西にあたる場所で
マンションの建設の際に遺構が見つかっています。


指月城とは3回建てられた伏見城の内、
最初に隠居の城として豊臣秀吉により建てられたもので、
文禄5(1596)年7月12月深夜から13日にかけて起こった
慶長伏見大地震で倒壊しました。

その後、伏見城は現在の明治天皇伏見桃山御陵に再建されます。
指月山の城に対し、木幡山伏見城と呼ばれました。
その城も秀吉の死後、
関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで焼失します。

そして関ヶ原の戦いの後に、今度は徳川家康により再建されます。


大光明寺陵 (12)a
宇治川より指月の森を眺める:11.11.19 撮影

大光明寺陵周辺の森は指月の森と呼ばれ、
平安時代からの景勝地でした。

桃山駅と西本願寺三夜荘 11.11.17

指月とは四月に通じ、
空に映える月、宇治川の流れに揺らぐ川面の月、巨椋池の湖面に浮かぶ月、
盃に受けて飲み干す乾杯の月
のことを言ったそうです。
また、「月の美しさを指す」という説もありますが、
これは後になっての説だそうです。


大光明寺陵 (7)
大光明寺陵参道前からJR奈良線を眺める。
この付近は谷となっていて、奈良方面へ向かう列車は堤の上を通り鉄橋で道路の上を跨いだ後、
間もなく小学校横で掘割に入りその先で橋の下を潜る。桃山が起伏の多い地域であることを感じる事ができる。:13.09.12 撮影








■伏見桃山の陵墓関係の記事
桃山御陵 ①
桃山御陵 ②
桓武天皇陵 10.07.08
仏国寺境内の謎の石棺と大亀谷陵墓参考地・古御香宮 11.04.24
伊予親王巨幡墓(遠山黄金塚2号墳) 10.02.23





■参照および引用した資料
・「京・伏見 歴史の旅」
 山本眞嗣・著 水野克比古・撮影 山川出版社
・京都市情報館(京都市ホームページ)
 史跡・名勝・天然記念物・文化財環境保全地区及び埋蔵文化財包蔵地台帳/伏見区
 (1182 指月城跡/ 1180 泰長老遺跡)
・「掘り出された京都(75) 伏見・深草⑥ 指月城の石垣」
 京都新聞 地域面 2011年10月9日
・「京の古道を行く」
 増田潔・著 光村推古書院






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