おがちぃ散歩

仁丹看板と伏見city 【03】

仁丹西大文字町
伏見市西大文字町/ 10.07.15 撮影

かつての伏見市の存在を伝える仁丹の町名看板。

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伏見市白銀町/ 10.07.15 撮影

仁丹下神泉苑
伏見市下神泉苑町/ 10.07.15 撮影

仁丹御駕籠町
伏見市御駕籠町/ 10.07.17 撮影

仁丹住吉町
伏見市住吉町/ 10.07.15 撮影

仁丹新町5 1

仁丹新町5 2
伏見市新町五丁目/ 11.11.17 撮影

仁丹看板と伏見city 01

とある書籍の広告で、東京の大学で知り合った友人との会話で、
出身が京都ということを話すと相手も京都出身だったという話になり、
「僕は西陣」という相手に「うちは伏見やねん」と答えると、
相手が内心「京都ちゃうやん」思っているという話があったらしい。

しかし、伏見出身でもある程度の年齢の方の場合は逆に、
「京へ行く」という言い方をされる方がいらっしゃる。
つまりは、京都と伏見は別の町という認識なのだ。

歴史的に見て、京都と伏見の町の成り立ちは違う。
京都が平安京の造成によってできた都市であるのに対し、
伏見は都の外れであり、また豊臣秀吉の伏見城の造営によってできた城下町、
または宇治川から淀川にかけての水運の町という一面がある。
京都と伏見はそれぞれ独自の歩みをもって現在に至っている。

明治から昭和にかけて、
京都市による周辺町村の編入が盛んに行われていた。

現在の伏見区深草地域は京都市合併前は紀伊郡深草村(後に深草町)だったが、
1918(大正7)年までは
京阪の鳥羽街道駅あたりから東福寺駅あたりまでの地域も深草村だった。
深草村の一部地域は京都市へ編入され、当時の下京区の一部になったが、
それより南の地域は京都市への編入を拒否した。
そればかりか、深草村と伏見町を総括した『大伏見市』の構想すらあったという。

その後、伏見は町制から市制に移行の後、
伏見とその周辺町村は遂に京都市に編入される。

伏見市の存在は1929(昭和4)年から1931(昭和6)年までの
2年間だけの存在だったが、
これには単なる京都市による町村の編入ではなく、
市と市の対等な関係をもっての合併という意味合いを持たせようとしたといわれる。

そういう経緯から見ると、冒頭の「京都ちゃうやん」って台詞は、
「嫌やけどしゃあないから合併して京都市になったったのに、
その言い草はなんや!!」
となり、口論から罵り合い、やがては拳を上げての喧嘩の原因となるので、
注意しなければならない。
西陣の彼は思ったとしても、それは永遠に内心に留めておかなければならない。

現在の伏見区の人口は284,082人(2011年11月1日)。
京都市11区の中で最大の人口を擁する区である。

京都市民は政治面では保守的であるといわれる。
大阪府の都構想に対しても遠目で見ているのかも知れないが、
かつて独立した都市だった伏見市を知る区民に限っては、
その推移に強い関心を示している...のかも知れない。

「京都市の解体分離で、伏見市として独立を!
私たちの政治を私たちの手に取り戻そう!!」



伏見市の存在は伝えないけど貴重なメンソレータム町名看板。

メンソレータム東大黒町
東大黒町/ 10.07.15 撮影

メンソレータム恵美酒町
恵美酒町/ 10.05.04 撮影

メンソレータム新町11
新町十一丁目/ 10.09.25 撮影

メンソレータム石屋町
石屋町/ 10.09.25 撮影

メンソレータム両替町9
両替町九丁目/ 10.07.17 撮影

仁丹看板と伏見city 02


【04】へ続く →仁丹看板と伏見city 04




■ネタ提供:十津庵

■参照および引用した資料
・「老人が子等に語る 伏見風土記」
 伏見区老人クラブ連合会 山本真嗣・監修
・「京・伏見学業書 第3巻 伏見の現状と未来」
 聖母女学院短期大学 伏見学研究会・編 清文堂





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