おがちぃ散歩

近鉄内部線乗車記 06.08.11

1_20120824065315.jpg
近鉄260系ク110形114号車 内部駅にて

■近鉄ク110形電車

内部線の開業70周年となる昭和57(1982)年、
それまで戦前に製造された旧型車両が長年使用されてきた
内部線の車両の近代化を図るため、
旧型車両の置き換えを行う目的で
新型車両となる260系電車が製造されましたが、
その一部は従来の車両のうち比較的新しいものを改造することで対応されました。

ク110形は、元々は昭和29(1954)年に、
現在の内部・八王子線と湯の山線、北勢線を運営していた
三重交通のサ360形として製造された車両でした。

前面に運転台部分を設置する改造がされたので
昭和57(1982)年製造の260系と同じ顔をしています。
内装もほぼ新車同様に改造されていますが、
側面窓や、窓の下のウィンドウ・シルと呼ばれる補強用の帯板に
改造前の名残があり、古い車両であることをうかがわせます。

ク110形を含む260系のグループは、
編成ごとに製造時期の異なる車両が新旧混合して組み込まれているので、
晩年の京阪1900系のような雰囲気があります。

京阪1900系電車ラストランの記録 01 08.12.20 

写真の車両はマルーンに
出入り口部分と車体裾部がオレンジに塗り分けされた
登場当時の塗装がされていますが、
近年は黄色・ピンク・水色・薄紫・薄緑などの
パステルカラーに塗装された車両が多数となっています。


内部線線路幅

内部線は全国的にも稀少な
ナローゲージ(特殊狭軌線)と呼ばれる線路幅が762mmの路線です。

ちなみにJR各社の在来線や
東急、小田急、南海などの私鉄の線路幅は1,067mm、
新幹線や京阪、阪急、京急などの私鉄の線路幅は1435mmです。


内部線260 04

車内には両替機が設置されていますが、
新紙幣と新500円硬貨が使用できませんでした。
となると、使える紙幣は夏目漱石と新500円以外の硬貨。
100円玉を崩す以外はあまり使えない機械です。
これは、6年経過した2012年現在でも変わらない現状らしいです。

3_20120824070647.jpg

内部線は線路幅が狭いので、それに比例して車体の幅も狭く、
ロングシート車では足を伸ばすと反対側に座っている乗客の足に当たってしまいます。

600 夏休み電車 03 600 夏休み電車 京阪膳所 粟津踏切
左:京阪600系電車車内 中央:京阪膳所駅にて 右:京阪粟津駅にて /06.09.02 撮影

比較で京阪大津線(石山坂本線)の電車の車内を掲載。

京阪の大津線の電車は、
特急の行き交う本線の車両に比べ小さいと言うイメージがありますが、
内部線のような通路の狭さはありません。
内部線がいかに狭いかが分かります。

実は京阪の大津線の線路幅は新幹線と同じで、僕の歩幅より大きいです。
内部線の線路を跨いでも右の画像のような感じにはなりません。


270 西桑名
三岐鉄道西桑名駅にて/ 07.12.29 撮影

日本でナローゲージの鉄道路線は、
内部線の他に三岐鉄道北勢線と黒部峡谷鉄道本線があります。

三岐鉄道北勢線も元々は近鉄の路線でしたが、
累積赤字により近鉄が廃止の方向を打ち出した為、
2003年(平成15)年4月1日より10年間の約束で
三岐鉄道が地元自治体の支援により運営を継承しています。


北勢線の存廃問題から数年経った今月、
今度は内部線・八王子線が赤字を理由に廃線にし、
その線路跡地にバス専用道路を整備する
『BRT方式への転換』を行う案を近鉄が四日市市側に提示しました。

1970年に722万人だった内部線の乗降客数は、
2010年には364万人まで減少し、
近年の赤字は毎年約3億円にのぼっているそうです。

BRTへの転換の為の専用道路の整備などには
約30億円の初期投資が見込まれ、
近鉄は行政に全額補助を求めています。
これに対し四日市市側は、
「近鉄という大会社が、何でも行政に頼るのか。
公共交通の担い手としての責任もあるはず。」と反発しています。

その一方で近鉄は、行政が赤字を補填すれば
路線存続の可能性もあるとの見解も示しています。


内部線260 with おが
近鉄260系との記念撮影をしたおがまる





■参照および引用した資料
・「信頼のネットワーク 楽しい仲間たち きんてつの電車」
 近畿日本鉄道株式会社
・wikipedia:三重交通サ360形電車
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%87%8D%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%82%B5360%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A
・「近鉄:内部線・八王子線の鉄路廃止、跡地にバス運行 三重」
 毎日新聞 2012年08月22日
・「【リポートみえ】強気の近鉄 市困惑」
 朝日新聞 2012年08月24日
・「内部・八王子線存続を 四日市、鈴鹿の自治会連会長ら近鉄に要望」
 中日新聞 2012年8月22日


■取材協力:十津庵・山産・ばー氏



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12.08.16 賀茂茄子の発祥地を訪ねる

桃山

京うど:京都市伏見区桃山町新町付近では伝統的な栽培法でつくられる。
11.11.13 京うどの栽培地を尋ねて

桃山大根:漬物ダイコンの王者とも言われ、かつては一大産地を築き、
     伏見の街の産業や文化を支えた。
桃山の名を冠した野菜たち ①
桃山の名を冠した野菜たち ②
桃山の名を冠した野菜たち ③

花菜:冬の切り花として栽培されたものが、
   戦後になり野菜として食されるように。
   古くからの花木の生産地である桃山でも切り花として栽培された。
12.04.15 伏見の酒蔵と菜の花 ①
12.04.15 伏見の酒蔵と菜の花 ②
12.04.15 伏見の酒蔵と菜の花 ③

桃山みょうが:京みょうがとも呼ばれ、桃山町江戸町地域はその発祥地。
11.10.20 ミョウガの収穫(O-GArden)
京みょうが発祥の地を巡る 11.04.14

伏見とうがらし:「ひもとう」や「伏見甘」、「青ト」とも呼ばれ、
        細長く、人差し指程の太さの甘味種のトウガラシ。
        江戸時代には伏見稲荷周辺で栽培されていたという記録もあり。
        京の伝統野菜に指定され、ブランド指定も。
12.06.01 みんな大好き淀苗 ① ((d(◎ー◎)b))
12.06.15 伏見とうがらしの収穫 ①
12.06.15 伏見とうがらしの収穫 ②

<以上リンク先は「おがのおーがにっくらいふ(★´ひ`★)ゞ」の記事>



2

伏見とうがらし、桃山大根、京うど、桃山みょうが、
花菜(伏見寒咲きナタネ)など、
伝統的な栽培法が伏見区で行われていたり、
伏見区にある地域に由来する京野菜がありますが、
代表的な京野菜として挙げられる賀茂茄子も伏見区にその発祥があるそうです。


賀茂茄子は主に京都市北区の上賀茂付近で生産されています

上賀茂地区は鴨川の上流にあり、
西は賀茂川、東は高野川に挟まれた扇状沖積地です。
砂質土壌の肥沃な土地で、平安京の造営以前から農耕が行われていました。

賀茂茄子は栽培上、多くの水を必要とするので、
川に挟まれた位置にあることも、
水利の点からも栽培に適した地域であると言えます。

賀茂茄子の栽培の歴史は300年以上ありますが、
現在の産地で栽培されるようになったのは明治時代以降のことです。


賀茂茄子は、昔、芹川と呼ばれていたことがあり、
種苗会社から発売されている品種にも
「大芹川丸茄子」「芹川茄子」などの名称の品種があります。
この芹川というのは、その茄子の発祥地に由来します。

その芹川というのは、
京都市伏見区の城南宮に程近い下鳥羽地域にあります。


芹川MAP

芹川は鴨川下流の東部、
城南宮の南東約1kmあたりの地域で、
江戸時代(1705年/宝永2年)に刊行された山城名勝志という書物には
三栖の北、竹田の南と紹介されています。

地名の由来は、その名の通り、
芹(セリ)が生えていた川があったことに由来します。
古来、この地に清流があり、3尺の根芹が生えていたそうです。 
その水源は鴨川の下流で、東方の竹田よりここに流入していたとか。

平安時代は平等院の荘園でした。
また、遊猟地であり、皇室の重要な猟場でもありました。

江戸時代から紀伊郡芹川村として存在しましたが、
明治7(1874)年には合併により下鳥羽村の一部となります。
竹田街道の西に位置する芹川村には、
車借、馬借を営む人がいたそうです。


芹川では、明治の初めには竹田茄子というものがあり、
現在の賀茂茄子にもっとも近いものだったといいます。
このことから、
京都市伏見区下鳥羽の芹川が賀茂茄子の発祥地と考えられています。



芹川1
京都市伏見区下鳥羽東芹川町にて。奥には下鳥羽公園のサッカー練習場と京セラの本社ビル。

現在、地名として残っている地域には、
【下鳥羽芹川町】【下鳥羽東芹川町】【下鳥羽西芹川町】
3ケ所がありますが、もともとは1つの町でした。

東芹川町と西芹川町は芹川町の東西に位置しているというわけではなく、
隣り合った場所にある東芹川町と西芹川町とは別に、
芹川町が竹田街道の西側に飛び地のように位置しています。
また、周辺の下鳥羽を冠する町名としても飛び地となっています。

これは、平成9(1997)年に芹川町の主要部分が
下鳥羽東芹川町、下鳥羽西芹川町となり、
竹田街道沿いの旧飛地のみが芹川町として存続していることによるものです。

1991年発行の地図では
東芹川町と西芹川町がある位置が芹川町と記されています。


芹川町
津知橋通と竹田街道北行きの交差点。竹田街道北行きは京都市電伏見線の廃線跡。
下鳥羽芹川町はこの付近にある。


棒鼻バス停
芹川町の最寄りの棒鼻バス停

竹田街道沿いの飛び地である芹川町は住宅街となっていて、
賀茂茄子の発祥地であることを感じさせるものはありません。

芹川2

芹川3

一方の東芹川町と西芹川町は、
多くの企業のオフィスや工場が建ち並んではいますが、
稲作が行われている田んぼや
畑作が行われている農地が一部残り、
賀茂茄子の発祥地としての雰囲気が僅かながらに感じられます。


芹川4
芹川町の主要部分だった東芹川町からは伏見桃山城の天守閣が見える。



※根芹:根を食用とするセリ。
    他のセリとは違った特別なものではなく、普通のセリと考えてもよい。
    セリは根の部分も美味しく、
    秋田名物のきりたんぽ鍋にもセリの根は欠かせない具材。




■関連記事:おがのおーがにっくらいふ(★´ひ`★)ゞ
12.07.29 直売所で賀茂なすを買いました ①
12.07.29 直売所で賀茂なすを買いました ②




■参照および引用した資料
・「歳時記 京の伝統野菜と旬野菜」
 高嶋四郎・編著 トンボ出版
・「現代にいきづく 京の伝統野菜」
 菊池昌治・著 誠文堂新光社
・「角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻」
 角川書店
・「京都市の地名 日本歴史地名大系 27」
 平凡社
・「都市地図 京都府① 京都市」
 昭文社
・wikipedia:京都市伏見区の町名
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%8C%BA%E3%81%AE%E7%94%BA%E5%90%8D





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桃山御陵 ②

1
12.03.21 撮影

2
12.03.21 撮影

3
12.03.21 撮影

4
10.07.09 撮影

5
10.08.05 撮影

桃山御陵 ①

長い石段を上った明治天皇陵の真ん前には
向島ニュータウンや宇治市内、
遠くは奈良県方面や大阪府北部地域を眺めることができます。

この場所に墓所が営まれたのは
明治天皇の遺言によるものだそうです。
陸軍の演習の際に、この地をお気に召されたそうです。


もともとの明治天皇陵の敷地は、
豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地でした。

かつて、向島一帯と宇治市と久御山町の一部地域は
巨椋池という広大な湖でした。
巨椋池があったころは、夜、その湖面に映る月がとても美しかったそうです。

おそらく、伏見城がこの地に築かれたのも、
ここからの眺めを秀吉がとても気に入ったからでしょう。
安土桃山時代、伏見城の築城により、伏見は城下町としての発展をします。

安土桃山時代の桃山とは伏見桃山のことで、
かつて伏見桃山が政治の中心地であったことを意味します。
江戸時代になると、政治の中心は伏見桃山から江戸へと移ります。


また、明治時代、当時の西本願寺の法主であった大谷光尊も、
ここからの風景を愛し、
それが現在のJR桃山駅が設置されるきっかけとなりました。

桃山駅と西本願寺三夜荘 11.11.17


明治天皇の遺言により御陵が営まれてからは、
桃山は参拝客で賑わい、
周辺には土産物店がたくさんありましたが、
終戦後は衰退し、数件の民家にその名残を残す他は、
その多くが御陵の森に還っています。


昭和39(1964)年には伏見桃山城キャッスルランドが開園し、
桃山に再び賑わいが戻りますが、
USJのオープンや、レジャーの多様化、少子化の影響などで
入場者数が減少し、2003年に閉園しました。


このように、桃山は栄枯盛衰を繰り返している土地だとも言えます。



6
09.08.10 撮影

7
09.08.10 撮影

近くで見るよりは迫力にかけますが、
毎年8月10日前後に開催される宇治川花火大会の花火を
桃山御陵の階段の上から見ることができます。






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