おがちぃ散歩

戸津道標の碑 11.10.09

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昭和三年春京都三宅安兵衛依遺志建之

八幡市戸津(とうづ)の府道沿いにある有智郷農協農業倉庫の前にある道標は、
京都府南部一帯に点在する三宅安兵衛遺志碑のひとつです。
三宅安兵衛遺志碑はおよそ400基が建てられました。


道標には

東 内里 八丁  松井 二十丁
  上奈良 八丁  岩田渡船所 三十丁
  上津屋 十五丁  寺田 一里余

西 八幡志水 八丁  橋本 一里
  八幡宮 十六丁  京阪電車楠葉乗場 一里
  京阪電車八幡停留所 二十丁  山崎 一里十丁

北 下奈良渡船所 十丁  宇治 二里余
  下津屋 十二丁  川口渡船所 十丁
  田井 十五丁  淀 一里

と刻まれ、戸津周辺の各地区、
「岩田渡船所」「下奈良渡船所」「川口渡船所」の3つの渡し船の乗り場、
京阪電車の八幡市駅・樟葉駅までの距離が案内されています。

そして、この道標は、東方面を案内している面が南側で、
西方面の案内が東側、北方面の案内が西側を向いていて、
石碑に刻まれた方角と実際の方角が異なっています。

この道標が建てられた時からこうだったかは分かりませんが、
私が思うにこれは間違っているということではなく、
むしろこの方が案内を目的とする道標としては利にかなっています。

例えば、西からやって来た人が目にするのは
当たり前ですが道標の西側の面です。
もし西側の面に方角の通りに西の方面の案内が刻まれていたなら、
さっき通った場所を目にします。
これでは案内の意味があまり意味がありません。

実際の方角に道標が合わす必要は必ずしも無いのです。


R281 八幡A (3) R281 八幡A (5) R281 八幡A (7)

戸津地区はもともとは綴喜郡戸津村で、
明治22(1889)年に有智郷(うちごう)村の一部となり、
昭和29(1954)年に周辺町村との合併により綴喜郡八幡町、
昭和52(1977)年には市制移行に伴い八幡市の一部となっています。

農業を中心とした集落で
米作、裏作の麦、
果実、セリ、ネギ、ナス、キュウリなどが多く生産されました。


戸津地区は木津川の西にあり、
男山丘陵と木津川とのほぼ中間の低湿地地帯に位置しています。
さらには木津川の河床が高いので、
特に明治時代は水害が多く、50mm以上の雨で2日ほど湛水しています。
そういった事情から、
避難用の舟を軒につるす家もあったそうです。

昭和36(1961)年代の初期には地区の西を流れる大谷川の改修が開始され、
後に府営の事業として引き継がれました。

この頃の京都府は“蜷川のトラさん”として親しまれた蜷川虎三知事の時代。
マイウェイを突き進んだ蜷川氏は
昭和25(1950)年4月より7期28年も京都府知事を務めました。
宇治田原でも「田んぼの中のこの用水路はニナトラさんの時にできた」
という話も聞きます。

昭和44(1969)年に木津川上流の
京都府相楽郡南山城村の名張川に高山ダムが完成します。
この高山ダムの完成と相まって
水害を根絶するため大谷川の改修工事は進められました。


また、地区の西側の湿地からは土師器、須恵器などの土器が出土しています。




■関連記事
三宅安兵衛 
三宅安兵衛 (宇治田原)
三宅安兵衛 (伏見)
三宅安兵衛 (八幡)



■参照および引用した資料
・「角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻」
 角川書店
・「京の石碑ものがたり」
 伊東宗裕・著 京都新聞社
・「きらめき☆Story」第56話:父子が残した石碑
 KBS京都放送 http://www.kirameki-story.tv/back56.html





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  2. 三宅安兵衛 (八幡)
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11.09.24 京阪橋本駅前 湯澤山茶久蓮寺の碑

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電車を降りて改札へ向かうと、その先に石碑があるのに気がつく。

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その石碑には、まず正面に橋本渡舟場と山崎停車所(現JR京都線山崎駅)、
柳谷観音(楊谷寺)
までの距離が刻まれ、
その右側面には湯澤山茶久蓮寺跡と刻まれている。

これは最初、「ゆざわさんさくれんじ」と読むと思ったが、
正解は「ゆだくさんちゃくれんじ」と読むのだそう。

豊臣秀吉があるお寺を訪れた際、茶を所望したところ、
出てきたのは白湯(飲むことを目的とし、ぬるく冷ました湯)だった。
その後も茶を所望したのだが、出てきたのは白湯ばかりだったという。

秀吉は武将としての顔とは別に、茶人としての一面も持っていた。
寺の住職は、茶人である秀吉を納得させる程のいい茶を出すことはできないので、
悪いお茶をだすよりかはマシであると判断し、
いっそのこと白湯をお出しすることにしたのだそう。

意に沿うものが出てこなかったとはいえ、
その住職の対応は茶人としての自分を賞賛するものであるので、秀吉も悪い気はしなかったのであろう。
秀吉は住職の意を汲み、
湯ばかり沢山あって茶をくれない寺という意味で、
「湯沢山茶くれん寺」と言った。
これが寺号となり『湯澤山茶久蓮寺』となったという。

現代においては具だくさんのカレーや、具だくさんのカップ麺など、
‘具だくさん’を謳い文句とする商品があるが、
それよりもはるか昔に〝湯だくさん〟のお寺があったのだ。

その〝湯だくさん〟のお寺の跡をこの碑は伝えている。

この秀吉による「湯沢山茶くれん寺」の逸話のあるお寺は他にもあって、
そのひとつが京都市上京区の浄土院である。

この逸話はネットで【湯沢山茶久蓮寺】と検索すると、
数件の記事が見つかる。


八幡市で京都市内のお寺を知る。
これも、この石碑がきっかけになるのだが、
この石碑の湯澤山茶久蓮寺跡と刻まれた面の反対側を見ると
昭和二年十月京都三宅安兵衛依遺志建之』と刻まれている。

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この石碑も三宅安兵衛遺志碑だったのだ。
何も言わずともいろいろなことを教えてくれるのが三宅安兵衛遺志碑である。

ちなみに、昭和二年十月…の左側面には『京大阪街道』と刻まれ、
八幡御幸橋、樟葉までの距離が案内されている。



秀吉でお茶と言えば、秀吉は宇治橋の橋守であった通円茶屋の主に、
茶に用いるために、宇治橋の三の間の張り出しから汲み上げた川の水を
毎朝伏見城まで運ばせていたという。
城が伏見という水の豊かな場所にあり、
さらには城内にも名水の井戸があったにも関わらず、
水汲みを命じていたのである。
権力とはそういうものであるらしい。

伏見名水スタンプラリーと伏見七名水 11.04.02
11.09.12 宇治橋(京都府)


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火の見やぐらと三宅安兵衛遺志碑

・三宅安兵衛遺志碑について
『双栗寺跡』の碑 10.10.11
11.07.09 『山龍寺遺址』の碑
11.09.12 宇治川ラインの碑



■参照した資料
・「京都大事典」 淡交社
・「京洛名水めぐり」 駒敏郎・著 本阿弥書店






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  2. 三宅安兵衛 (八幡)
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